降車ボタン押してもらわないと…

この日の乗務は同じ路線を4往復する
早番仕業だった。

車内も閑散としている早朝の一往復目、
とあるバス停から80歳代と思われる
高齢の婦人が乗車した。

車内ミラーでその婦人の動向を確認しつつ
ドアを閉めるタイミングを伺っていたのだが
整理券を取らず席に行くように見えた。

(あれ? 整理券、取ってないよね?)

車内マイクで尋ねてもよかったのだが
私の見落としかもしれないので
ここは静観することに…

ちなみに、私が乗務する路線は
整理券式後払い(後乗り前降り)なので
乗車時に整理券を取ってもらう必要がある。

もし取り忘れても乗車したバス停を
申告してもらえれば金額はわかるのだが
これを逆手にとって運賃をごまかす可能性も
否定できないため、この婦人が乗った
「石上神社前」と言うバス停と顔を
覚えておくことにした。

そして、駅(終点)に到着。

石上神社前からの運賃(560円)を
あらかじめ確認しておいた私は
その婦人が整理券を持っていたのか、
さらに、運賃は正しいか確認することに。

しかし、その婦人は運賃箱を前にし、
上部にある運賃表を眺めたまま
ピタッと動きが止まってしまった。

どうやら、運賃がわからないようだ。

(尋ねてきてもいいようなものだが…)

ただ、他の乗客や後続車の関係もあるので
のんびりするわけにはいかず、

「石上神社前からだと560円ですよ!」

と、こちらから金額を案内して
運賃を支払ってもらうことに…

すると、無言のまま財布から小銭を
取り出し運賃箱に入れて降りていく。

(なんなんだぁ?)

私はモヤモヤした感覚に包まれたが
とりあえず一往復目を終えた。

そして、そんなこともすっかり忘れた
昼下がりの三往復目。

今度はその婦人が駅から乗ってきた。

(あっ、朝の人だ!)

こういう時の乗客の顔は
意外に忘れないものである。

「次は石上神社前、石上神社前です」

車内放送が流れるも降車ボタンは押されず
私の頭の中はすっかり通過モード。

しかし、直前の信号待ちのときに
その婦人は席を立って両替に来た。

(あっ、石上神社前から乗ったよな?)

と、私はすっかり忘れていた往路の
エピソードを思い出した。

程なく婦人は席に戻り、信号も変わるが
降車ボタンは押されない。

(あれ、降りないのかな?)

不安を感じた私は車内マイクで

「両替された方、次で降りますか?
降りるならボタン押してくださいね」

と尋ねたのだが、返答どころか
表情も微動だにしなかった。

「お知らせなければ通過します!」

少しボリュームを上げてアナウンスしたが
それでも降車ボタンは押されなかった。

「石上神社前、よろしいですか!?」

バス停はすぐそこまで迫っている。

(ボタン押されてないし、いいかぁ)

と、内心思ったのだが、
やはり何かがおかしい。

そう思った私は石上神社前に停車して
降車ドアを開けることに…

案の定、ドアを開けると
その婦人は席を立った。

「すいません。ボタン押してもらわないと
通過しますので注意してくださいね!」

再三の案内を無視されたことに
感情が高ぶってた私は語気を強めたが
婦人の表情は変わらない。

(もしかして… 認知症か!?)

ここではじめてその可能性に気が付いた。

降車していく後姿を見て
ため息が出たのは言うまでもない。

さて、この婦人が認知症だったかは
定かではないが、高齢者社会を迎え
認知症患者は増えていくだろう。

そして、このようなエピソードは
地域に密接に関わる路線バスを中心に
今後増えていくような気がする。

今回、私が往路で石上神社前から乗車した
ことを記憶していたので、降車ボタンが
押されなくても復路で停車したわけだが、
これは偶然であり、他の運転士なら
間違いなく通過していただろう。

もし、バス停を通過した時、
この婦人は行き過ぎたことに
気が付いたのだろうか?

都心のようにバス停の間隔が300~400m
なら歩いて帰れるかもしれないが、
このあたりのバス停間隔は800m~1kmで
急な坂もあり高齢者がひとりで歩いて
帰れるところとは言えない。

私にも還暦を過ぎた親がいるが
色々考えさせられるエピソードだった。

プロフィール

長年勤めたウェディング業界から路線バス運転士に転職したアラフォーの「こーくん」。メルマガのバックナンバーを公開しています。
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